何をもって方向性が正しいとするのか
「方向性を間違えた」というからには、この記事を書いた記者は「正しい方向性はどのようなものか」という想定があったに違いない。それは次のような部分だ。Morozovは両者の違いについて、フリーソフトウェアはユーザの側面を強調し、オープンソースはデベロッパを強調する、と書いている。でも、フリーソフトウェアも、その主な関心はデベロッパではないだろうか。つまりその自由は、主にデベロッパの自由であり、ほとんど一般大衆とは無縁だ。しかしこの点にこそ、運動がコースを間違えた理由がある。
つまり「オープンソースは開発者に訴えかけて支持を得たが、フリーソフトウェア運動はユーザーの利益を主眼としたものであり、開発者への訴求力が劣っていたためオープンソースほど受け入れられなかった」というのが記者の主張のようだ。つまり、彼のいう「正しい」とは「どれだけ普及したか、世の中に受け入れられたか」ということらしい。
フリーソフトウェア財団の方向性
フリーソフトウェア財団というか、リチャード・ストールマンの凄いところは主張にブレがないというところだ。「ソフトウェアの自由は守られるべきで、世の中はよりソフトウェアの自由が尊重される方向に進むべき」という至って分かりやすいものだ。そして、実際フリーソフトウェア財団は世の中がそうなるように活動している。フリーソフトウェア運動が方向性を間違えるとしたら、この主張に反する主張や活動を始めたときだろう。だが今のところそのような兆候は見られない。
ちなみに、リチャード・ストールマンは原理主義的だとかよく揶揄されるけれども、実際には譲歩の姿勢もよく見せている。最近ではLinuxにフリーでない(しかもDRMつきの)ゲームがValve社によって移植されるという知らせを受けて、"Nonfree DRM'd Games on GNU/Linux: Good or Bad?"という記事の中で「WindowsでゲームするユーザーがLinuxへ移行するならあながち悪い面ばかりではないのではないか」というようなことを綴っている。このような寛容さは原理主義とは程遠いように思う。確かに過激な発言をすることもあるけど、まったく融通が利かない原理主義ということはないのである。
柔軟でありつつも、方向性は一貫して「ソフトウェアの自由を守る」という方に向いている。方向性は何も間違っていない。
フリーソフトウェア財団の収入推移
フリーソフトウェア財団の活動は、主に個人からの寄付で賄われている。そのため、フリーソフトウェア財団が支持されているかどうかはフリーソフトウェア財団の収入に反映されていると考えられる。フリーソフトウェア財団の収支はこのページにある申告書で確認が可能だ。フリーソフトウェア財団の収入(Revenue)を年次でグラフ化すると次のようになる。
単位はUSDだ。多少の浮き沈みはあるものの、何となく増加傾向のように思う。実はTechCrunchの記事に違和感を覚えたのは最近フリーソフトウェア財団の活動が活発化しており、割と予算があるように思えたからだ。そのため、個人的にはフリーソフトウェア財団はゆっくりだが着実に支持者を伸ばしているような印象を受けていた。オープンソース運動ほどド派手ではないものの、フリーソフトウェア運動も少しずつ成功を収めているように思う。(ごく主観的な印象では、特にヨーロッパ方面で支持者が増えているように感じている。)
No free, no opensource!
このエントリを締めくくるにあたり、ひとこと言わせてもらいたい。それは、もしあなたがオープンソースの支持者であれば、フリーソフトウェアも支持するべきであるということだ。
オープンソースは開発の方法論であり、フリーソフトウェアはソフトウェアの自由、つまり倫理に対する主張だ。両者はレイヤーが違う。料理を作るときに材料とレシピのどっちが大事かみたいな話だ。美味い料理を作るにはどちらも必要なのである。だが、材料がなくてはどうにもならないのと同じで、ソフトウェアの自由がなければオープンソースは成り立たない。フリーソフトウェアライセンスなくして、バザール型の開発は成り立たないのである。
また、たとえどれだけ優れた開発手法であっても、それが開発手法である限り常に代替の選択肢がある。開発手法は適材適所で選ぶべきであって、One size fits all的にすべてオープンソース的な開発手法がうまく適用できるわけではないはずだ。伽藍だって世の中には必要なのである。
しかし自由には代替は利かない。そして、ひとたび手放してしまったら取り戻すのは極めて難しい。だから自由は大切なのだ。
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