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2010-12-07

公園で青少年健全育成条例について考えた。

俺には幼い息子が一人居る。最近、休日はちょくちょく栃木県壬生町にある「とちぎわんぱく公園」に出かけて一日中息子と過ごすことが多い。わんぱく公園ではヤギが飼育されており、柵ごしに子供たちがそのへんに生えてる葉っぱなどをあげられるようになっている。そこでちょっとした発見があったのでブログにしたためておこうと思う。

ヤギの気持ちはヤギにしか分からない

ヤギに葉っぱをあげるなら、多くの人が青々とした新鮮なものを選ぶのではないかと思う。小市民たるこの筆者も当然のごとく青い葉っぱを選んで息子に「これ食べるんじゃないか?」と言って渡した。だが、いくら息子が柵の前に葉っぱをさし出してもヤギは一向に食べようとしない。それどころか、ヤギは一心不乱に足元にあるものをゴソゴソと食べている。何を食べているのだろうと覗き込んだところ、そこにあったものはなんとカサカサに乾燥して茶色くなった枯葉だった!

我々が枯葉などを食べるとなると腹でも壊してしまうんじゃないか?と考えてしまう。だが、人の感覚とは随分異なるが、ヤギにはヤギなりの理由があって枯葉を食べているに違いない。そう思った俺は、「きっとヤギさんは枯葉のほうが好きなんだよ。これあげてみな。」と言って息子に枯葉(そのへんに落ちてたやつ)を差し出した。すると、青い葉っぱには興味を示さなかったヤギが、すぐに枯葉に食いついたのだった!その後、息子は次々に枯葉を拾ってはヤギのところへ持って行き、ヤギはいくらでもそれをパリパリと音を立てて平らげたのだった。「ヤギさん葉っぱ食べた食べたよ〜!」と息子は大はしゃぎであった。

ヤギは何故新鮮な青い葉っぱではなく、枯葉を食べていたのだろう?確かにヤギは食物繊維であるセルロースを分解する酵素を持っている(正確には腹の中に居る細菌が)ので、枯葉を食べても栄養になる。頭では分かっているが、ヤギなどを飼ったことがない自分にとって、それは新たな発見であった。

嗜好は誰が決めるのか

今回、筆者が息子とともに過ごす中で得た教訓は、

ヤギは強制されて枯葉を食べていたのではない。自ら好んで枯葉を食べていた!

ということだ。飼われているヤギなので当然飼葉は十分与えられている。青い葉っぱも差し出されている。だがそんなものには目もくれず、食べていたのは枯葉なのであった。ヤギはなぜ枯葉を食べたのか?それは自分が食べたかったからに違いないのだ。ここで「枯葉などを食べたら腹を壊すに違いない」などと言って、ヤギから枯葉を取り上げるのは間違っている。ヤギは枯葉を食べて不健康になるだろうか?

ところで、先日とても興味深いエントリが掲載された。山崎マキコ氏による、高校時代の回想エントリである。もし読まれていないようならぜひご一読を。

子供にとっての性的世界 - 文藝春秋編 日本の論点:山崎マキコの時事音痴

話の主旨は、当時女子高生だった山崎氏が、大人たちによって「こんなものを十代の女の子が読むなんて大問題だ!」と言って貴重な「性」の情報源であった「ポップティーン」が購入できなくなったことに対して腹を立てたというエピソードだ。そのとき、周囲の大人たちは「有害な情報を与えられた女子高生は健全な大人に育たない」と考えたのだろうか?それとも「こんな情報を与えたら自分が望むようには育たない」と考えたのだろうか。

現在、東京都は「東京都青少年健全育成条例改正」を躍起になって推し進めているが、健全さとは一体何だろうか。時代が移り変わり、世の中は昔よりもう少しオープンになった。当時は「有害な情報だ!」と周囲の大人が決めつけていた「ポップティーン」を読んだ山崎氏は、歪んだ大人になってしまったのだろうか?いや、決してそのようなことはない。山崎氏は自ら望んだ情報を得て、知識を膨らませただけに過ぎない。書かれたコラムの内容から察するに、非常に健全な方ではないだろうかと思われる。

人は皆異なる。100人居れば100通りの嗜好が存在するし、嗜好は時代によっても常に変化し続けるだろう。欲しい情報、読みたい小説、見たい漫画、聴きたい音楽などを自分で取捨選択し、それを楽しむことは決して不健全なことではない。自分の嗜好にあったものを楽しむ限り、どこにも害などはない。それは自分が欲したものなのだから。

むしろ、人は自分が望まない情報を押し付けられたときにこそ歪んでしまうのではないだろうか。大人によって情報がコントロールされ、大人の都合の良いように押し付けられた情報ばかりを与えられるような状況こそ、不健全で、どこか媚びた子供たちを量産してしまわないだろうか?

差別的発言をすることと差別を作品の中で描くことの違い

分別のある大人であれば、差別をすることはいけないということを理解しているだろう。なぜならば、それは他者の人格を否定する、即ち人権を蔑ろにする行為だからだ。人権を蔑ろにする大人は不健全であると言わねばなるまい。

映画や小説、漫画、アニメといった創造的作品の中には、暴力やレイプ、差別といった他者の人権を踏みにじるシーンが描かれていることがある。だが、それらはあくまでも架空の人物を対象としているものであり、実際には誰の人権も犯してはいない。そういったシーンを見たところで、「俺(もしくは私)も同じようにしよう!」という思考には直接繋がらないことは、多くの人が知っているではないか。映画「ターミネーター」を見た直後に、「マシンガンをぶっぱなしてターミネーターに成り切った」というニュースは今のところ聞いたことがない。もしくは「石原都知事が昔書いた小説を読んで変態行為を働いた」といったニュースも聞いたことがない。

現実と空想の区別がついているからだ。

だが一方で、現実に差別的発言をしてしまう人が居る。当の「都青少年健全育成条例」を進めている石原都知事だ。

都青少年健全育成条例改正案:PTA団体など、都に成立求め要望書 /東京
--- 引用 ---
都内のPTA団体などが3日、都青少年健全育成条例改正案の成立を求める要望書を都に提出した。石原慎太郎知事は「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」と応じた。

テレビに同性愛者が出て何が悪いのか!?まるで同性愛者は健全ではないと言わんばかりの発言ではないか。同性愛者は確かにそうでない人と比べると少数派であろう。だが、それは異常で不健全ということを示すものではなく、彼、彼女らの人格は当然のごとく認められねばならない。現実と空想の区別がついていないのは一体どちらなのだろうか。

都青少年健全育成条例を推進している当の本人の発言が不健全とは、まったく皮肉なものである。

規制が成立してしまったときに失うもの

人は、皆自由に嗜好を持って良いはずである。その嗜好に従って、小説や映画、漫画、アニメといった作品を描いて良いはずである。少なくとも、フィクションであれば現実の登場人物を誰ひとり傷つけることはない。作品中で誰が死のうがレイプされようが、現実に人が死んだり被害に遭ったりすることはないのだから。

もし、自分の嗜好を文章や映像として自由に表現することを禁止されてしまったら?少なくとも、戦争映画や、少女が性犯罪の被害に遭うというエピソードを含んだ映画、ヤクザ映画などは全て姿を消してしまうだろう。人が性に目覚め始める「思春期」は、映画にとって格好の題材であるはずだが、青少年の健全育成のために(18歳以下の性を描いてはいけないという理由で)規制されてしまう可能性が高い。性を描かない青春など、ネタが乗っていない寿司のようなものではあるまいか。

健全かどうかを行政が判断するのであれば、それは大きく歪んだものになりかねない。少なくとも行政にとって都合の良い情報に偏るだろうし、都知事のような方が判断すれば同性愛者はテレビから抹殺されてしまうことになる。同様に、同性愛を支持するような発言もテレビやラジオでは出来なくなってしまうだろう。

規制が成立することで我々が失うもの。それは正しく「言論の自由」である。それは全ての人が持つべき人権であり、政府が恣意的に禁止して良い類のものではない。もし政府にそれを許してしまったなら、冷戦時の社会主義国家のように秘密警察が人々の言動を取り締まり、文明は後退し、そして国は荒んでしまうことだろう。

健全な青少年を育てるために本当になすべきこと

今、幼い子供を持つ親として、政府による人々の嗜好への介在は絶対にさせるべきではないと思っている。本当に大切なのは、世の中には様々な人がおり、千差万別の価値観を持っているということを教えることではないか。そして自分と異なる価値観を持った人の人格を認めることではないか。権力者による差別発言を絶対に許さないことではないか。

そして、何よりも大事なのは子供を信じるということだ。子供が100%自分が思うように育つということは絶対にあり得ない。子供は、親が知り得ない様々な情報を見聞きし、体験をし、そして心を育てていくことだろう。その中には親の価値観に沿わないものも少なからず含まれるはずである。だが、それを「こんな有害なものを見たら心が歪んでしまう!」などと言って否定しないことこそが大切なのだ。それを見て何を思うかは人それぞれだし、子供には子供なりに考えがあって見ているはずだ。子供の価値観を否定すること以上に子供を歪ませることはない。ヤギが枯葉を好んで食べるように、もしくはかつての女子高生が性の知識を欲したように、自分が一見すると有害な情報でも子供にとっては必要なものかも知れない。健全な精神をもった大人は、戦争映画を見たところで「戦争しよう!」などとは思わない。それと同様に、子供にもちゃんと分別があるということを信じるべきなのである。もし仮に道を誤りそうになったら、他者の人権を踏みにじるようなことをしたら、その時こそ本気で叱るべきなのだ!

もうひとつ大切なのは、大人が行動を改めることである。少なくとも、都知事という大切なポストについている人間が、特定の性的嗜好を持った人に対して差別発言をする行為は、フィクションと比べ物にならないぐらい悪影響である。新聞を読んだ子供たちは「同性愛者はテレビに出ちゃいけないんだ」と考えただろう。なんせ都知事様がそう教えてくれたのだから。大人が子供にダメな手本を見せることほど、教育にとって悪いことはないのだ!

ニュースを見れば私利私欲のためだけに動く大人たちの話で持ちきりだ。都知事の差別発言もさることながら、国民が見るべき映像を隠したばかりか平気で嘘を言ってのけたり「埼玉方面のダム建設を中止する」と言って得票した政権がいつまでも工事を辞めずに中止の中止を検討したり正義であるはずの検察庁がデータの改ざんを行なったりプログラムの設計上の欠陥を認めず「能力として不十分」と言い逃れをしたり、その手の話題には本当に事欠かない。もはや新聞は有害な情報が満載だから読むなと言いたくなるレベルである。

本当に子供を健全に育てたいのなら、子供に健全さを求める前にまずは自らの不健全さを正すべきではないだろうか。

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