その上で、本音主義の政治家が何故大衆にウケるのかということについて、ひとつの考察を加えようと思う。
本音を言う"人"が信用されるのは何故か
コラムの核心に迫る部分を引用する。善悪や正邪とは別に、「本音」と「建前」という座標軸が現れた時、無条件に「本音」を神聖視する考え方が力を持つに至る。
と、ここにおいて、
「露悪的な人間ほど信用できる」
という倒錯が生じる。
つまり、より残酷で、より差別的で、より無遠慮で、より助平で、より欲望丸出しなご意見を申し述べる人間だけが「本当のことを言う人」として信用されるみたいな、黒魔術の秘密結社みたいなものが誕生するのである。しかも、政治の世界に、である。
特定の政治家の名前は挙げないが、世論において確かにそういう傾向はある。なぜ人はそういう露悪的な人間を信用するに至るのか。はたまた何故そういう露悪的な人間を装うというモチベーションが生まれるのか。
結論を言ってしまうと、人が何らかの意見についてその正当性を吟味するとき、意見の内容そのもの(What)ではなく、誰がその意見を言ったか(Who)によって判断してしまうという習性があるからだ。もちろん、誰もが常にどちらかで判断しているわけではない。普段は主にWhoで判断している人でも、ときにはWhatを重視することもあるだろう。だが多くの場合、人は何(What)ではなく、誰(Who)が言ったかのほうに注目してしまっている現状があるということだ。そこに問題の根幹があるように思う。
Whoのほうが重視されるなら、大衆ウケが良いキャラクターを演じようとするのは、政治家にとってごく自然なモチベーションとなるだろう。信用できる人を得た大衆、大衆に信用される政治家。Win-Winの関係ができあがり、双方ハッピーというわけだ。
いや、待て。果たしてそれでいいのか?
その人物が信用に足るかどうかというのは、その人が持つ属性のようなものだ。「のようなもの」という但し書きをしたのは、実際にはそんな便利な属性などはないからだ。人間は不完全な存在である。どんな聖人であっても間違いは犯す。しかも過去にどれだけ立派であろうが、何かのきっかけで転落し、悪人になってしまうこともある。立派な人でも、金に困ったり欲に負けたりして、人を欺いてしまうことがあるかも知れない。
ここで主張したいことは、ある人が絶対的に信用に足るかどうかというような属性は実際には存在しないものだということだ。それは単なるレッテルでしかなく、なんとなく分かったつもりになるには便利な基準かも知れないが、実際にはむしろ判断力を曇らせる材料になってしまう。その人の言うことが信用できるかどうかは、その都度判断するべきものだ。もっと言うと、ある瞬間にその人の発言が信用できるかどうかは、発言の内容をもって判断するしかない。だからWhoではなくWhatが重要になるのだ。
とは言え、議論の内容(What)に対して何の見識もなければ自分で判断し、意見を述べることはできない。人が得られる知識には限界がある。何故なら時間も能力も無限ではないからだ。人間には知らないこと、わからないことがたくさんある。いや、むしろ世の中分からないことだらけだと言っても良い。政治も、ニュースも、ネットで人気の記事も、どれひとつとっても完璧に理解できている人など居ないだろう。それが人の偽らざる姿である。
だから人はついつい代弁者を欲してしまう。万能でない自分の代わりに、それを良く知っている、あるいは正しい判断が下せると思われる人に、意見を代弁してもらいたいのだ。それによって分かったつもりになり、万能感が満たされる。そうするために、本来存在しないはずの「信用に足るかどうか」という判断基準を無理やり誰かに当てはめてしまう必要が生じ、その結果「本音を言う人ならば嘘は言わないから信用できる」というような倒錯が生じてしまうのではないだろうか。
100%信用できる人間などこの世に居ない
露悪的であるにしろ、そうでないにしろ、よく知らない他人を信用し切ってはいけない。何故ならば誰もが完璧な人間ではないからだ。完全に信用に足る人間などこの世には居ない。誰にだって都合の悪いことはひとつやふたつはある。人が自分にとって都合が悪いことから目をそむけるのは、別におかしなことではない。自我を守るために誰しもが無意識のうちにやってしまっている。だから、信用できるはずの人が、自分の期待するものとは違う行動や言動をしてしまうのは、ごく当たり前のことだといえる。他人を盲信してはいけないのだ。ところで、露悪的に見える政治家はたくさん居るが、そもそもそれは本当にその政治家の本音だろうか。そのほうがウケがいいから露悪的な政治家を演じているだけで、本音を言っているように見せているだけという可能生はないか。もしくはその政治家が単に露悪的な発言が好きなだけで、それを見た受け手が本音を言ってるのだと勘違いしている可能生はないだろうか。
あなたは悪人を信用するか?
『「露悪的な人間ほど信用できる」という倒錯』とは言い得て妙である。露悪的な人間は、本来どちらかと言えば信用ならないはずである。そのほうが信用できるというのだから、なるほど確かに倒錯である。より残酷で、より差別的で、より無遠慮で、より助平で、より欲望丸出しなご意見を申し述べるような人は、露悪的というよりは、単に悪人だと仮定しても差し支えないのではないか。あなたは悪人を信用したいだろうか。欲望剥き出しの悪人を。
もうひとつ、記事の中で面白いと思った箇所を引用しよう。
それでも、下劣なヤジが下劣である旨を指摘する人間に反発する都民の数は、そんなに少なくない。
なんというのか、「下劣なものの下劣さを指摘している人間の正義の構え」の中に、「正義の立場に立つ者に特有な自己陶酔」を嗅ぎ取るみたいなドヤ顔の本音主義者が、ネット言論の周縁部に蟠踞していて、彼ら「偽善」が大嫌いな論客の皆さんは、
「じゃあ、あんたはサバンナでも同じことが言えるのか?」
であるとか
「一度も罪を犯したことが無い者だけが石を投げなさい」
であったりする十年一日のテンプレートディベートで、今日もご清潔なご意見を葬り去ろうとしているからだ。
人間はどうやら偽善というものに対するセンサーは敏感らしい。これはきっと騙されたくないという心理から生じた防衛本能のようなものだろう。それはそれで結構だが、露悪的な人間に対してどうやらそのセンサーはうまく働かないらしいから困りものである。相手が偽善的であれ露悪的であれ、騙されないよう気をつけたいものである。
「一度も罪を犯したことが無い者だけが石を投げなさい」
ちょっと話が横道に逸れるが、先ほどの文脈でこの有名なキリストの台詞を用いることの問題について言及しておきたい。鬼の首を取ったかのように、この台詞を偽善的な発言をした人に投げつける輩が居るが、それはこの言葉の用法を間違っている。この台詞が尊いのは、投石されている女性を、つまり弱者を救ったからである。弱者を救済したという行為が尊いのだ。
一方で、よくネットで見かけるこの台詞は、他人を「偽善者だ」と非難するときに使っている。他人を非難する行為はまったくもって尊いわけではない。むしろその発言こそがニセの正義であり、それこそが偽善であるとも言える。有名な台詞だからこそ注意して使わなければならないだろう。
露悪的でなければ信用できるか
世の中、「私はうそつきです」とか「私はあなたを騙す悪いやつです」と言って近づいてくる悪人は居ない。悪人は、その程度が悪であればあるほど、相手に悟られないよう本章をひた隠しにするものである。そして言葉巧みに乗せられて、ついつい儲け話などに乗っかってしまい、コロリと騙されてしまう。人はついつい甘い言葉を発する人間には隙を見せてしまうものだ。気分を良くしてくれる人をうっかり信用してしまう。だが、それは相手が「あなたの気分を乗せることで得をする」と勘定しているから、そうしているに過ぎない。だからといって露悪的なら信用できるというわけでもないという点については、先程述べた通りである。露悪的であろうがなかろうが、簡単に人を信用などしてはならない。会ったこともない、モニターを介してしか見たことがないような政治家なら尚更である。
そもそも、過去の実績や発言内容や振る舞いなどから、その人が信用に値するかどうかを見い出すのは誤りである。過去は過去。今は今。そう捉えておくのが賢明である。
また、いくら信用できると感じたとしても、その人の言葉を全て鵜呑みにするのは、判断を他人に移譲してしまっているということだ。他人に判断を委ねているのは、自分では何も考えていないに等しい。他人の意思は他人のものである。いくらあなたが信用しようが、あなたの思い通りにはならない。他人が自分が期待した結果と違う行動をしても文句は言えない。「騙された!!」とか、「信用してたのに!!」などと言う筋合いはないのである。
では他人に騙されないようにするにはどうすれば良いか。それは簡単なことだ。Whoに判断を任せるのではなく、自分でWhatを考えれば良い。
相手の人格を批判するなかれ
Whoに重きを置くことによって生じる弊害がある。それは、Whoを重視すると、人はついつい相手の人格批判に走ってしまうということだ。その図式は概ねこんな感じである。あいつは酷いヤツだ。だから言ってることは間違ってる。
当然ながら、これは論理的に誤りである。その人の人格がどうかということと、その人が発言したことの正しさは、イコールで結ばれることはない。もちろん、「誰が言ったか」によって言葉の文脈が変わることはあり、その点は差っ引いて考える必要があるのは確かだ。だが、誰が言ったかという点だけしか見ないでいると判断を間違えてしまう。どんな悪人が言おうとも、正しいことは正しいのだ。(人によって1 + 1の計算結果は変わらないだろう。)
くれぐれも、相手の人格を否定しておいて、「だからあいつの言う事は間違っている」というような論法を正しいと思ってはいけない。
この一連のヤジの件について、ちょうど山本一郎氏が反面教師的な記事を書いてくれている。
セクハラ野次@都議会事件に関する一般論による解説(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース
塩村氏の過去は過去であり、子育て支援についての議論とは何ら関係はない。それどころか、過去にどのような人生を歩んでいようが、心ないヤジを飛ばしても良いという道理はない。
山本氏がリンクを紹介している、恋のから騒ぎのビデオに登場する塩村氏は、確かに褒められた言動はしていないと思う。だが、過去にどれだけよろしくない言動をしていたとしても、改心して今頑張っているならそれはとても尊いことではないか。少子化で困っている我が国では、子育て支援が重要であることは言うまでもない。だが解決の糸口は見えない。そのような難題に取り組んでいる姿勢は、過去がどうであれ、決して非難されるべきことではないと言えよう。
そういった意味でも、今回の山本氏の意見には苦言を呈したいのだが、それ以上の批判はしない。山本氏の人間性についてどうこういうつもりはないし、過去や未来の記事についてこの話を持ち出すことは(文脈が同じでない限り)ないだろう。山本氏は鋭い観察眼を持ち、多くの人を楽しませてきたという事実には変わりはないので、これからもそういう方面では頑張って欲しいと思う。今回のような記事はもう勘弁願いたい。
レッテルは差別へ連なる
再度話が横道に逸れるが、レッテルを貼るということの危険性について言及しておきたい。悪いレッテルは差別と呼ばれる。当然そのようなレッテル貼りはやってはいけない。だが良いレッテルも問題がある。
人がレッテルを貼る動機は、レッテルを貼ることにより、その人の意見を色眼鏡で見させようとすることである。あいつは酷いヤツだ。だから言ってることは間違ってると。
こういったレッテル貼りが有効なのは、人がWhatではなくWhoで判断してしまうからだ。「信用できる」というようなポジティブなレッテルが有効だから、反対に、ネガティブな印象を与えるレッテルを貼ることで信用を失わせるという攻撃が可能なのだ。
レッテルの良し悪しは表裏一体である。話の内容を信用できるかできないかをWhoで判断している限り、人が他者をその属性で判断する限り、この世から差別が無くなることはないだろう。そのためにも、人は皆Whatだけに注目するべきなのである。
人は変わる
男子三日会わざれば刮目して見よ!という格言がある。元は三国志のエピソードである。人は時として大きく成長し、変わるということだ。時代が時代なだけに「男子」という限定がついているが、変わる可能生があるのは別に男子だけではないだろう。三日というのは随分極端な例だが、年月が経てば人が変わるのは疑いようのない事実である。多くの人は、普段自分のことだけでいっぱいいっぱいになっており、なおさら他人の変化には鈍感なものである。
当然ながら、この記事を書いている私も日々刻々と変化している。成長したいと願ってはいるものの、良くなることもあれば悪くなることもあるだろう。人生そんなに甘くはないのだから、良くなるばかりとは限らない。
否応にも時は流れ、年の分だけ経験は増え、どうやっても老いから逃れることはできない。その結果、時が経てば同じものについても、物の見方が変わってくることがある。これはある意味仕方のないことだ。物の見方が変わらないということは、成長していない証であるとも言える。人間、時が経てば良くも悪くも物の見方は変わるものである。
そういう意味でも、誰が言ったか(Who)だけで物事を判断してはいけないのだ。その人の意見は、過去の意見とは異なっている可能生があるからだ。どれだけ相手の人格が変わっても、純粋に議論に、つまりWhatに集中していれば問題は生じない。常に本質に迫った議論ができるだろう。
発言を恐れるべからず
山本氏の記事にある新たなヤジもその類であるが、過去の発言や言動をあげつらって、「過去に酷いことをした奴は黙ってろ」とばかりに圧力をかけようとすることがある。だがそれは間違いだ。人間は誰しも完璧な存在ではないので、過去に多数の過ちを犯しているものである。過ちが去ると書いて過去だ。
もしあなたが過去の過ちを悔いているとしよう。しかしだからといって言って押し黙る必要はない。過ちを犯すのは人の性なのだから、過ちを理由に黙らなければならない道理はないのだから。
そして人には表現の自由がある。過去に何をしていたとしても、基本的人権のひとつとして、表現の自由が保証されている。何を言うかはあなたが決めれば良い。それはあなたの権利なのだから。
私も数多くの過ちを犯してきた。穴があったら入りたいと思えるようなこともたくさんある。誤解のないように言っておくと、過去の失敗をきれいサッパリ忘れてしまって好き勝手に発言しよう!というようなことを推奨しているわけではない。失敗は失敗として心に留め、その上で成長するべきであると思う。過去の失敗を理由に、今押し黙るのは間違いだと言いたいのだ。人は過ちを犯す生き物なのだから、その時その時でベストを尽くすことしかできない。
もしかすると私もあなたも間違ったことを言ってしまうかも知れない。いや、人は間違いを犯さないわないわけはないから、これからも確実に間違いを犯すだろう。だが、過去の失敗を悔いて、あるいは新たな失敗を恐れて発言を控えてしまっていては、人は、そして社会は前には進まないではないか。
可能な限りベストを尽くそう。他人の失敗をあげつらうのはよそう。誰でも失敗するのだから、互いに失敗は許し合えばいいじゃないか。そういう姿勢で語り合えば良いじゃないか、と私は思うのだがいかがだろうか。
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