問題のTogetterのまとめでは、GPLが伝搬する範囲を誇大に表現し、「GPLは危険だから使うな」というニュアンスを含んだメッセージが投下されていた。GPLのファンとしてはGPLに対するネガティブな誤解を産むような誤った発言は見過ごすことは断じてできない!!遅筆中の遅筆になってしまったが、今日は改めてGPLの適用範囲について解説しようと思う。なぜ遅筆になっていたかは、フリーソフトウェア財団の見解を聞いていたからだ。問い合わせれば遅くなってもちゃんと返事をくれるので、疑問がある人は聞いてみるのもいいだろう。(ただし英語)もちろんその際大人のマナーとして寄付を忘れないようにしたい。
Q. GPLv2に書いてある翻訳ってどこまで適用されるの?機械翻訳のこと?
という感じの内容の質問を送ったところ、次のような回答が返ってきた。There is no one answer to the question of whether a translation is a derived work. If the translation is essentially mechanical (whether carried out by humans or machines), then it would almost certainly be considered a derivative, and thus would still be covered by the GPL. On the other hand, if new work needed to be done, perhaps it wouldn't. Ultimately, the question could only be decided in court by comparing the sources in question.
筆者訳:「翻訳は派生した作品かどうか」という質問に対しては唯一の回答というものは存在しません。翻訳が本質的に機械的であるならば、それが実際に機械で行われたものか人間によるものかに問わず、それはほぼ派生した作品であると見なせるでしょう。従ってそれはGPL適用の対象となります。しかし一方で、もし新たにコードを書いたならば、それはおそらくGPLの適用範囲外です。究極的には、その質問に対しては法廷で問題となったソースコードを比較しながら判断されることになるでしょう。
これはある意味常識というか、著作権法についての見識がある人にとっては至って普通の内容である。GPLだからこうだというわけではなく、すべてのフリーソフトウェアライセンスないしはオープンソースライセンスに当てはまることである。
アイデアの模倣か、複製なのかということに対する明確な答えはない。
これは何もソフトウェアだけに限ったことではなく、あらゆる著作物に当てはまる。例えば風景画などもそうだ。
ある人(Aさんとする)がとても素晴らしい富士山の絵を描いたとする。その絵を見て感動した別の人(Bさんとする)が、同じ場所から同じ角度、同じスケールで富士山の絵を描いたとしよう。すると当然ながら、その絵はAさんの絵にとても似通ったものになるだろう。だが、紛れもなくBさんの絵はBさん自身の手で描いたものだ。果たしてBさんの絵はAさんの絵の複製であると言えるだろうか?
Bさんが自らの手で描き上げた風景画は、Bさんの著作物のに決まってるだろうが!と、思われるかも知れないが、実はこの問いに対する回答はとても難しい。もちろん真実はBさんの著作物に間違いない。だが、「その絵をBさんが描いた」ということを、Bさん以外の人はどうやって判断するのだろうか?
第三者から見れば、Bさんの絵はAさんの絵の複製なのか、Bさん自身が「同じ場所、同じ角度、同じスケール」で富士山を描いたものなのかの区別がつかない。すると、「BさんはAさんの絵をトレースしたんじゃないか?」というような疑惑も浮上してくるかも知れない。第三者の視点では、「Bさんは実際の風景ではなく、Aさんの絵をモデルにして絵を描いた」という可能性すらも払拭できない。例え「同じ場所、同じ角度、同じスケールで同じ山を描く」というアイデアだけが共通のものだったとしても、そして絵の対象が「山の風景」という公共の物だったとしても、2つが同じものだと判断されてしまう可能性はゼロではないのである。
複製か?それともオリジナルか?
この問いに対して、私は上記の返事をくれたフリーソフトウェア財団のひとと同じような回答をするだろう。すなわち、究極的には、その質問に対しては法廷で問題となった絵を比較しながら判断するしかないと。付け加えるなら、「しかもその判断は裁判官や弁護士によっても異なったものになるだろう」と。
小説でも、ストーリーが似ているというようなことがあるだろう。推理小説なら同じトリックを描写すると、とても似通ったものになるかも知れない。トリックというアイデアは共通だが、真似たと判断されるリスクはつきまとうだろう。
このように、アイデアを真似たのか、それとも著作物そのものを真似たのかという切り分けはとても難しい。これは、著作権そのものが持つ曖昧さだと言って差し支えないだろう。最終的に、人間が法廷で判断することになるのだから、その裁判に関わる人の恣意的な解釈によって判断が異なるという根本的な問題があるからだ。だが、このよう人が判断するという運用以外に、オリジナルの著作物かどうかを判断する方法はあるだろうか。
他に有効な方法がない限り著作物の類似性については人が判断するしかなく、あらゆる著作物を世に出す人は類似性を指摘されて訴訟されるリスクに苛まれることになる。アイデアを真似るというのは創造の源である。ほとんど全ての著作物が、過去の何らかの著作物の影響を受けていると言っても過言ではない。例えば今から「ヘヴィメタル」を作曲するとしよう。過去のヘヴィメタルの影響を一切受けずに、どうやってヘヴィメタルだと分かる曲を生み出せるだろうか。ヘヴィメタルを知らない人に、ヘヴィメタルを作曲してくれと頼んでもできないだろう。ヘヴィメタルを作曲できるのは、過去のヘヴィメタル作品に共通する何らかのエッセンスを模倣した場合のみである。模倣が一切ダメなら、作曲家は自分が過去に創作した作品のアレンジをするか、そうでなければ曲ごとに新しいジャンルを生み出し続けなければいけないことになる。
だが心配は要らない。アイデアは著作権では保護されない。(第三者からは「邪魔されない」というべきか。)アイデアを保護するのは特許である。特許によって誰かに独占されていないアイデアであれば、自由に著作物に取り込むことができる。だから、「GPL適用のソースコードを他言語に移植してBSDライセンスに変更できるか」という冒頭の問いに対しては、建前上は「オリジナルのGPLのソースコードで実装されているアイデアが特許で守られていなければ、他の言語に移植をしても著作権侵害には当たらない」と答えることができるだろう。ただし、著作物が似ているかどうかは最終的に人の判断になるので、訴訟されて裁判で負ける可能性はゼロではないという点を付け加える必要がある。
特許の問題
少し話が横道に逸れるが、特許というものは実に厄介なものである。絵画や音楽のような芸術作品では特許が問題になることは少ないが、とりわけソフトウェア開発では特許が大きな問題となっている。問題のひとつは、特許の審査が緩すぎて特許が無数に存在するということである。そして、その特許の中には汎用的すぎて適用範囲が広大なものまで存在する。案外アイデアというものは誰もが同じようなことを考えつくものである。ソフトウェア開発者が実装をしながら思いついたアイデアが、既に他の誰かに特許によって独占されてしまっている可能性はとても高い。他人の特許を避けてソフトウェア開発を行うのは、さながら地雷原を進むようなものである。それは現実問題として不可能だろう。特許の持つ最大の問題は、それが役に立たないということではないだろうか。スマートフォンでは特許の訴訟合戦が繰り広げられているが、これはいわば「地雷をどれだけ多く相手の布陣に撒き散らせるか」ということを競い合っているようなものである。本当に良いもの、世の中の役に立つものをつくろうと思ったら、そのような地雷がなくみんなが全力で駆け抜けることのできるフィールドで競い合ったほうが良いに決まっている。特許の本質は「独占」である。確かに独占することで金儲けをしようというインセンティブは生まれるかも知れないが、それによって膠着状態が起きるので、技術の発展には寄与しない。
特許の問題については、以下のエントリでもっと詳しく述べているので、興味があればぜひそちらを参照して頂きたい。(ちなみに、最初のエントリで紹介している書籍は超オススメである。)
- 書評: <反>知的独占 〜眼から鱗の2010年の必読書〜
- 今世紀最悪の不必要悪、特許神話を打ち砕く!!〜前編〜
- 今世紀最悪の不必要悪、特許神話を打ち砕く!!〜後編〜
- ジョナサン・シュワルツの発言から考察するソフトウェア特許の有害性
- 漢のソフトウェア特許廃止論
あなたのアウトプットは、誰の著作物になりますか。 | オープンソース・ライセンスの談話室
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