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2013-05-20

災害時にペットを救済するための提案

前回のエントリでは環境省のガイドラインに対して反対の立場であること、そしてその理由について書いた。エントリの主張は主に「災害時に避難所にペットを連れ込むことは避けるべき。ペットを死なせたくないのなら元から飼わないのが一番」という内容だった。ただし、災害時に避難所にペットを持ち込まないなら現在進行形で飼われているペットが救済されないだろう。(誤解を避けるために明言しておくが、私は動物が好きだから無闇に死なせたりするべきではないと考えている。)あくまで避難所を利用せずペットを救済するにはどうするべきかということについて、とてもナイスなアイデアが浮かんだので書いておこう。

ペットの収容施設を作る

いや、待て待て。人間の避難所でさえ逼迫してるのにペットの収容施設ってどういうことだよ!!と思われるかも知れない。だが、もうしばらく辛抱して何故それがナイスな提案なのかを聞いてもらいたい。

前回のエントリでは次のように書いた。

ちなみに、災害時の避難所の件とは別に、ペットに課税するのは大賛成である。数多くの(数十万の)犬猫が毎年殺処分されているという現実を考えれば、殺処分をしなくて済む程度の(つまり一生面倒を見られる程度の)税収ができるように飼い主にや業者に課税するべきである。

もし全国にそのような捨てられたペットの収容施設があれば、災害時のペットの受け入れ先として活用できるのではないか。平常時から犬猫を収容していれば飼育のノウハウはバッチリだろう。キャパシティに少し余裕を持たせておけば災害時に多少のペットを受け入れたとしても問題はないはずだ。なんたって日本では年間30万頭の犬猫が殺処分されている。全国津々浦々、ペットのための収容施設ができるはずである。(そもそも数でいえば災害時に死んでしまうペットよりも、人間の身勝手な行動によって殺処分される犬猫のほうがずっと多い。本気で「ペットを助けよう」と考えるなら、そちらのほうが優先されるべきである。)

専用の施設を作るのが現実的でないというのなら、動物園など既に動物を飼育している施設に有償で協力を仰ぐのもいいだろう。動物園ならば既に飼育のためのノウハウを持っているし、犬猫以外の動物にも対応できる。珍しい動物なら展示も可能だろう。また、動物園にとっては収入源になるので経営が安定するというメリットもある。

緊急時に避難所に人間とペットがごちゃまぜになることもない。平常時に人間の身勝手な理由で大量のペットが捨てらたペットが殺処分されることもない。万事OK。ただし金銭面さえ解決すればの話だが。

どうだろう?避難所にペットを持ちこませるガイドラインよりはずっとナイスな案だと思うのだが。

本題はこんなところで、以下四方山話。もういいやと思った人はここまでで読むのを止めてもらって結構である。読んでくださってどうもありがとう。

ペットが捨てられる理由

我々日本人がしっかりと把握しなければならない不都合な事実は、人間の身勝手な理由で大量のペットが捨てられ殺処分されているということだ。まずは次の映像を観て欲しい。





安易にペットを買う側も問題だが、人間はいい人ばかりじゃない。ペットを飼う資格のある人格の持ち主ばかりじゃない。そのような有象無象の人に闇雲にペットを販売したらどうなるか分かりそうなものである。売る側が「最後まで面倒見ろ」というのは尤もだ。しかし現実はどうだ。社会として最終的なペットの行き先は保証されていない。いや、放棄されたら殺されるという点は保証されていると言えるかも知れない。だがそのような状況でペットを販売するのは無責任ではないだろうか。まるで核廃棄物の最終的な処理を決めないまま稼働される原発のような無責任さである。

殺処分の責任は売る側だけでなく買う側にもある。ペットショップでペットを買った一人ひとりの人に全ての責任があるというわけではないが、みんな責任の一端は担っている。ペットの生体販売というビジネスを金銭を支払うことで下支えしているのだから。

言いたいことは「今の日本では犬猫を買ってはいけない」ということだ。まずその前に殺処分がされないような社会づくりをするべきだ。その点から目を背け、「自分"だけ"はそんな無責任なことはしないから大丈夫」と、ペットの購入を憚らないのは本当に無責任である。もしあなたが死んだら残されたペットはどうなるだろうか?病気や怪我で働くのもままならなくなったら?躾に失敗して手がつけられ亡くなったら?それでも絶対に天寿を全うさせる、いくら凶暴な犬になっても可愛がると言えるだろうか。

See also: 【ペットを飼う人に必ず知ってほしい10のこと】犬・猫は全国で年間20万頭も殺処分されている | ロケットニュース24

買う側に本当に責任があるのか

ペットを放棄する人だけが悪いのか?個人の責任の範疇、法律の範疇で見ればそれは間違いではない。

だが、ペット産業のエコシステムという視点で見れば、購買者というのはとても重要な役割を果たしている。購買者が居なければビジネスが成り立たないからだ。そのような社会的な背景があると知りつつペットを購入するのは、倫理的に「微塵の過も犯していない」とは言えないのではないか。

「買う方に責任がある」という主張に少しでも賛同できるかどうかは、視点の違いであると思う。個人、法的な視点と、社会全体、倫理的な視点の違いだ。

エゴは絶対的に悪なのか

ペットを飼うのは人間のエゴ(エゴイズム)だ。その点に関しては妥協の余地はない。ペットは生活必需品ではないし、誰も「ペットを飼ってくれ」と頼んでいるわけではない。ただ、飼い主が「飼いたい」と思うから飼っているだけである。

ではエゴは絶対許されることではないのか・・・というと、そんなことはないと思う。むしろ人間はまったくエゴを通さずに生きることなどできないだろう。世の中でエゴから切り離されたことなどないのだから。

動物を犠牲にするという点では、ペットを飼うのも動物を殺して食べるのも差はないという人も居るだろう。では肉を食べるのはエゴなのだろうか。

肉を食べなければエゴではないのか。野菜ばかり食べていればエゴにはならないのか。原料が植物だけというなら、酒も植物(穀類やフルーツ等)から作られるが、酒を飲むのはどうか。穀類をかなり無駄にしているが、自らの楽しみのために穀類などを無駄にするのはエゴではないのか。

資源を無駄にするという意味ではおしゃれはどうか。着飾らなくても最低限の衣類さえあれば生きていけるはずだ。

趣味はすべてエゴなのか。おおよそ全ての趣味は、本来生活に必須ではないものである。スキーやゴルフは大量に樹木を伐採してコースを作るが、スキーやゴルフをしないからといって死ぬ人は居ない。人は別に将棋や囲碁をしなくたって死ぬことはない。一見まったく無害に思える書道のようなものであっても、紙という資源を浪費していると言える。書を楽しまなければ、切られなくて済んだ木があったかも知れない。

楽しむ行為はすべてエゴか。我々は霞を食って瞑想をしながら生きるべきなのか。

そうではないだろう。いや、そうとも言えるしそうでないとも言える。どこで線引きをするかは、結局個人の価値観次第になるだろう。何をもってエゴとするのか、どこまでエゴを通しても良いのかという問いに明確な答えはない。結局のところエゴから無縁で生きられる人は居ない。であれば、他人の人権を侵害せず、なおかつ迷惑にならない範囲であればエゴは認められるべきであろう。

災害時のペット持ち込みについて

ペットを飼うことはエゴであり、単なる嗜好である。従ってペットを飼わないでおこうと思えば、いつでも止めることができる。(ペットを人に譲ってもいいし、ペットが死んだときに止めてもいい。だが現実には保健所への持ち込みが非常に多い。)

絶対に間違えてはいけないのは、エゴが人命より優先されてはいけないということだ。「ペットは家族だ」と思っているのは飼い主だけであり、「赤の他人よりペットを優先する」という考えに基づいた行動は、他者の人権を無視したものであり、社会で許容されるものではない。

人命を危険に晒す環境省のガイドラインは、人権という観点からも褒められたものではないと言える。

ペットが死ぬのは飼い主の責任

例え災害に遭って避難所に入れずに死ぬようなケースでも、ペットが死ぬのは飼い主の責任である。ペットの行動は著しく制限される。災害時に自由に逃げまわることはできない。そのようなリスクを承知の上で飼っているのだから、その結果死んだとしても仕方がないものとして受け入れるべきである。

「お前、動物が嫌いなんだろ?」

ペットに対して批判的に書いているが、ただペットとして動物を飼う行為が飼い主の欲望を満たすためのエゴイズムだと主張しているだけであって、私は動物が好きである。子供を連れて動物園にもよく足を運ぶし、動物について書かれた書籍もよく購入する。動物が好きだからこそ無理をしてまで飼おうとは思わないのだ。特に大型の動物である犬を都市で飼育するのは無理がある。忙しい日々を送っているのであればなおさらだ。どうしても狭い部屋に閉じ込めたり、鎖でつないだり、十分に運動をさせられなかったりする。メスなら避妊手術もしなければならない。可愛がるというよりはむしろ虐待をするに等しい。好きだからこそ、そのような行為はしたくないのだ。

参考:「動物好き」って?

子供を持つことはエゴか

ペットについて批判すると、必ずといって良いほど、「子供を持つのもエゴだ」という人が出てくる。前回のエントリにもそのようなコメントがついたのだが、私の意見はこうだ。「ペットと人間の子供を同列に扱うのははっきり言って馬鹿げてる。」

子供を持つのがエゴだという考えは、自分自身の存在を否定しているに等しい。なぜならば、自分もかつて子供だったのだから。自分の存在はエゴなのか。エゴということなら社会にとって不要なのか。いや、そんなワケはないのである。

人間は社会的な動物である。社会がなければ生きてはいけないので、誰もが社会に対して貢献する義務を負っている。社会は次の世代への新陳代謝をしなければ成り立たないので、直接子供を育てるわけでなくても、次世代を育むということは人間に課された義務である。「子供を持つことはエゴだ」という人の意見には、自分が社会の一員であり、社会システムが正常に機能するには次世代の育成が欠かせないという視点が欠落している。

前回のエントリから自身のコメントを引用しておこう。

人は皆社会がなければ生きていけませんから、社会を存続する義務を負っています。社会の存続には後の世代を残すということが欠かせません。直接「子を持つ」という選択をしなくても、何らかのかたちで次の世代を担う人々の育成や社会への貢献はしなければならないでしょう。どんな苦難があろうとも、直接的・間接的に関わらず、次世代を産み育むことは我々、つまり社会に頼って生きる人々にとっての義務です。生物にとって新陳代謝が必要なように、社会にとっても新たな細胞が必要です。あなただけでなく、多くの場面で「子供は持たなくても良い」という意見をしばしば見かけますが、そういった意見には「社会は次の世代を次々と産み出すことなしに成り立たない」という視点が欠けているように思います。

ペットは趣味です。家族だと主張するのは個人の自由ですが、実質的にペットが社会の一員として自主性を持った、人間と同等の存在になることは不可能でしょう。エントリでは「エゴ」だと表現しましたが、ひとつ取り違えて頂きたくないのは私はエゴ自身を完全に否定するつもりはありません。人間誰しもエゴを一切持たずに生きていくことは不可能でしょう。他者の人権を侵害したり、迷惑をかけたりしない範囲であればエゴは互いに認め合うべきです。

ただし、義務とエゴの違う点は、エゴは単に止めることができるということです。我慢できればベストです。エゴを通した結果悲しい思いをするなら止めれば良いと思います。そして、最も大事なことは、エゴが人命より優先してはいけないということです。そのような理由から反対意見をエントリとしてまとめた次第です。

犬は噛む

東京地裁:反町、松嶋夫妻飼い犬が佐藤可士和さん妻かみ転居 385万円賠償命令- 毎日jp(毎日新聞)

犬は肉食だから他の動物を噛むのが自然なのであって、噛まないほうがおかしいのである。いくら躾をすれば噛まなくなると言っても、犬とて常に自制できるわけではない。(人間だって度々理性を失うではないか!)

釣り針がでかい?

ブコメにそのような主旨のコメントがついた。私の答えはこうだ。

男なら釣り針もでっかく行こうぜ!

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