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2015-09-02

この世から残念な○○が無くならない理由

少し前に、日本Web技術界隈著名人の残念さ具合というタイトルの記事が話題になった。名指しで個人を批判している記事なので、リンクするのは控えておこうと思う。意見には賛同する部分はあるものの、読んでいて気持ちの良いものではないからだ。まだ読んでなくて興味のある人はググッて頂きたい。あと、言っておくが私自身はその記事でリストアップされている人たちの仕事ぶりは知らないので、評価については言及しない。

この記事を読んで思ったのは、別に残念なのは別にウェブ界隈に限った話ではないよなーというか、残念な人をこの世から撲滅するのは構造的に不可能ではないかということだった。特に後者についてはかねてより考えてきたことであり、これはもうある意味仕方のないことではないかと思う。具体的な例を挙げるのは避けるが、割と技術書なんかでも酷いものを見かける。

というわけで、今日はこの構造的な問題点について語ろうと思う。

圧倒的大多数の人は適正な評価を下せない

最大の問題点は、ITなどの専門分野の記事や書籍は、その専門知識をきちんと持っている人にしか、適正な評価は下せないということだ。書店から書籍を購入する人は、その分野の知識を学習するために書籍を購入する。分かりやすかったかどうか、内容が充実していたか、誤りが少なかったかなどを、読んだ後に評価することは可能であるが、その本だけを読んだ状態では、どうしてもその本自体の価値に対して評価し得るだけの知識は無いのである。少なくとも、他の書籍や論文などと比較して、ようやく判断が下せるようになる。そもそもその本を含めた技術書をたくさん読まないとエキスパートにはなれないのだが、これは卵が先か、鶏が先かという矛盾をはらんだ問題であり、根本的に解決することは難しい。

カリスマとは何か

「あのひとが言ってることだから間違いない」

私はこういう物の考え方は好きではない。少ない情報の中からどうしても判断しなければならない場合など、そういう考え方を迫られるケースもあるだろうが、出来ればそのようなアプローチは避けたほうが良いと常々思っている。発言内容の正しさは、Who(誰が言ったか)ではなくWhat(何を言ったか)で判断すべきだ。(参照:本音主義が政治で跋扈する理由と、より良い社会にするために我々が為すべきこと。

ここには問題が2つある。誰が本当のエキスパートなのかはエキスパートにしか分からないという問題と、エキスパートが常に正しいことをいうわけではないという問題だ。

前者については、これは本当に難しい。一見して長年キャリアがあって、書籍もたくさん出している人であっても、記事や書籍を読むと何が書いてあるのかサッパリ理解できないような怪文書であったりすることもある。(あくまでも個人の感想として。)キャリアや肩書があると、そういうものかという先入観がどうしても生まれてしまい、その記事や書籍の正しさを理性的に判断することが難しくなってしまうことがある。結局のところ、間違ったことや不適切な内容があるかどうかは、こちらがわが正しい知識を持っていないと見抜けないのである。

余談であるが、このエキスパートでなければエキスパートの価値を適正に判断できない問題というのは結構根が深くて、仕事の場でも問題になる。仕事ぶりを適切に評価することができるのは、評価する側の能力が高い場合に限られるからだ。なので、上が残念だと、いくら凄い仕事をしても、どれだけ素晴らしいスキルがあっても、なかなか適正な評価をもらうことは難しい。そして往々にして、企業の上層部は技術力のある人なんて居ないので、サラリーマンで真っ当に技術を追求するのはいばらの道である。だから日本の現場からは技術力がどんどん失われることになるので、競争力が失われてしまうのである。余談終わり。

後者の問題については、人間誰しも不完全な存在であるということに尽きる。エキスパートとは言え人間である。この世に完全無欠な人間は存在しないのだから、たまには間違ったことも言う。何度も何度も検証して、何度も読みなおして内容を確かめて見ても、なんの間違いも無い書籍を一冊書き上げることなど不可能に近いと思う。バグが無い大規模なソフトウェアを書くことが実質的に不可能なのと同じように。ソフトウェアにはバグがある。人間は間違いを犯す。なので、What(何が書いてあるか)に集中することが重要なのである。誰が書いたものであっても、常にそういう前提で記事や書籍には向き合うべきであり、その方が読むことで得られることも大きいように思う。

もう一点付け加えて言うと、人類の叡智というのも発展途上である。というか、科学技術は永遠に発展途上であり、現時点で判明している正しいことというのは、この世の真理の一部でしかない。そして、最新の科学技術であればあるほど、専門家の間では議論が揺れている。どれだけ優れたエキスパート同士であっても、意見の食い違いが生じるのは仕方のないことである。だから、何が正しいのかということを自分で判断できるだけの知識や能力が重要であり、その上で建設的な議論をすることが大切なのである。それに、科学の世界だって、業績が後から評価されるということは珍しくない。どのような素晴らしい発見であっても、その発見の重大さを理解する人が居なければ評価は得られないのである。

そもそも著名になるというのはどういうことだろうか。ぶっちゃけた話、仕事で成功したり、著名になったりするには、実力も大事であるが、運や縁(コネ)の要素が欠かせない。実力が伴ってなければ長続きはしないだろうが、著名度というものは、必ずしも実力と比例しているわけではない。人はついつい線形的な思考に陥ってしまいがちだが、人の社会には、綺麗な相関を持った事象のほうが珍しいのではないか。

というわけで何が言いたいかというと、肩書なんか気にするな!!カリスマなんてクソ食らえ!!ということである。

disってもしょーがねーよ

最後にもうひとつ言わせて貰うと、名指しで人をdisるのは殆どの場合良くない。遠回しであっても、個人が特定できるような批判は良くない。(参考:ドワンゴは大量退職に関する印象操作をやめろ

人をdisらば穴2つ。人をdisってしまうと、そのことで後から必ずしっぺ返しを食らうし、そもそもdisったところで自分に何らメリットがあるわけではない。disってマウントポジションを取れば相対的に自分の価値が上がるというわけではないのである。disられた方は嫌な気分になるものだし、人をdisると、周囲からは「お前はどうなんだよ」とか「ああ、そういう人なんだ」という目で見られることになる。むしろ評価は下がるのだ。人をdisったところで何も得することはないと言って良いだろう。そんなことに時間を費やすよりも、日々精進し、本当に自分の価値を高めるような作業に勤しむべきである。

批判するのならWhoではなくWhatにすべきである。それならば角も立たないし、建設的な対話も可能である。Whatを指摘して激昂されてしまったら、対話は諦めよう。きっと建設的な対話はできない。

この世から残念な○○は無くならない。せめて自分自身が残念にならないよう、自分に対して失望しないよう、日々の言動には気をつけたいものである。

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